(本名)
(本名) 小気味良い-デパート-村人
       

ASMR太郎

 

新しく東京に出来たデパートなるところはこの世の桃源郷と呼ばれるくらいの、極楽に最も近い場所だとまことしやかに噂されていた。漁村で暮らす音部 鉄太郎はたまに漁港にやってくる行商人たちからデパートについてのそれはそれは素晴らしい話を聞いて、いつかは行ってみたいものだと思っていた。
しかし、この漁村から東京まではとても遠かった。しかも、仮に東京へ行ったとて、デパートで豪遊する金など家中引っ掻き回しても見つからない有様だった。
「夢見てんじゃないよ。さっさと働きな」
嫁の房江は鼻で笑う。房江は子供たちの面倒を見ている。鉄太郎は夢見がちなところを除けば勤勉に働く真面目な漁師だったから、村人たちからは重宝がられていた。
少ない給料でもどうにかやりくりできたのは、鉄太郎の地道な仕事への姿勢と房江の熱心なサポートがあったからこそだった。
「おら、デパートさ行きてえなぁ」
鉄太郎は口を開けばデパートの話ばかりだ。
鉄太郎は今日も沖合で他の村人たちと地引網を引き揚げていた。すると、網の中に謎の法螺貝が入っていた。
「何だこら?」
時はロシアと戦争をするとかしないとかの話題が村中に上がっていた頃だ。どうやら兵隊が突撃の号令を出すための法螺貝が網に紛れ込んでしまったらしい。
面白そうだからと持ち帰る鉄太郎。その夜、何の気無しに法螺貝を耳に当てると箱を軽く指先で叩くような小気味いい音が聞こえてきた。
「おおおおおおおおお……」
脳の奥が揺さぶられ蕩けそうになる音に、鉄太郎は虜になった。ぞわぞわと背筋が震えたが、なんともこれが心地いい。
さらに子供たちの泣き声、騒ぐ声が喧しくて不眠の気があった鉄太郎も、この音を聴きながら布団に入ると良く眠れたのだった。
感動して房江にも勧めると房江も大層よく眠れた。房江には、背後から耳元に息を吹きかけられるような、やはりぞわぞわした、それでいて心地のいい音が聞こえたらしい。
「これだ!! これで勝負に出るぞ!!」
鉄太郎は閃いた。一世一代の大勝負だ。
鉄太郎は家財を全て売り払うと家族を連れて夜汽車に乗って東京へと向かった。
片道切符だった。うまくいく保証はなかったが、不安そうな房江と子供たちとは裏腹に鉄太郎は野望に燃えていた。
そして、鉄太郎は東京に着くと病院を開いた。

「不眠ノ者来タレリ。小気味良キ音ニテ涅槃ニ連レテユク也」

手書きの下手くそな看板を掲げた。
デパートは目と鼻の先だったが、今の鉄太郎にはとても遠く感じられたのだった。

***

鉄太郎の病院は全く繁盛しなかったが、当の本人はまったくめげなかった。
やがて戦争が始まった。日露戦争だ。
日露戦争に招集される若者たちは不安を抱えて眠れないものも多くいた。
そんな者たちの1人が鉄太郎の病院の戸を叩くと、鉄太郎は喜んで施術を行った。
鉄太郎に出来ることは法螺貝を聞かせるだけだったが、効果はてきめんだった。
その若者には後頭部から左耳へ回り込むようにして「こんにちは〜」と優しく囁く女性の声が聞こえたという。若者は涙を流しながら病院のベッドで眠りについた。
噂が噂を呼んで戦地へ行く前の若者の間で鉄太郎の病院が大流行した。どんなに恐怖に怯える者でも、鉄太郎の法螺貝の音はその者を涅槃に導いた。
そうして鉄太郎はこれまで手にしたことのないような大金を手に入れて、大手を振ってデパートへ向かい、房江や子供たちとお腹いっぱいオムライスを食べることができた。
家族団欒もできて、房江に綺麗な服を買ってあげることもできた。
しかし鉄太郎の心は晴れない。戦地へ行く若者たちが気の毒だった。そこで、蓄音機の普及に目をつけた鉄太郎は法螺貝の音を録音してレコードにすることを考えた。
大金を叩いて制作したレコードは録音環境も相まってノイズ混じりの音だったが、それは戦地へ行く若者たちを大いに安心させ一部の間で大流行する事となった。
それが今日でいうASMRの走りであり、この音が市民権を得て多くの人の耳を癒すまでには、だいぶ長い年月を要する事となった。

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