(本名)
(本名) 虎-占い-本屋
       

花灯篭

占い師が旅の途中で一頭の虎と出会ったのは、蓮の花が浮かぶ湖のほとりだった。
倒れて死にかけている占い師を、飢えた虎が今にも食おうとしていた。
虎が占い師の荷物袋を物色していると、中には本が1冊だけ入っていた。本は空白の頁で満たされ何も書かれていなかった。いぶかしむ虎に占い師は言う。
「虎よ。お前の行く末を占う代わりに、俺を食べないでくれるか」
虎は問う。
「なぜだ? 我も腹が減っている。貴様を食らえば3日は命が長らえる。然らば、貴様を食うのは自明の理」
「だとしても、だ。虎よ。俺にはどうしても生きなければならない理由があるのだ」
「理由?」
「そうだ。俺はこの本を埋めたいのだ。たとえばそこに咲く蓮の美しさや湖面の輝きなど、見てきたすべてを書物に残したいのだ。もしもそれが完成したら、俺は喜んでお前に食われよう」
フン。と鼻を鳴らす虎。人間はいつもそうだ。そう言って我を欺こうとする。
くだらない、と口を大きく開けたそのとき
「いつか、お前の孤独を癒やすものが現れるだろう」
そう占い師に言われ、虎はたじろぐ。たしかに虎は孤独だった。友が誰も居なかった。占い師は続ける。
「この借りは必ず返す。次会うときは俺を食え」
占い師は最後の力を振り絞って立ちあがると、そのまま去ってしまった。
虎はそれを呆然と見ていることしかできなかった。

***

やがて月日が流れる。
いつかと同じ蓮の咲く湖のほとりで、老人が1人座っていた。
そこに老いた虎が現れる。
「虎よ。約束を果たしにきたぞ」
「そうか」
「ただ、虎よ。俺を食った後、この書物を読んではくれないか」
虎はうなずき、約束通り老いた占い師を食べる。骨と皮ばかりの味気ない人間だ。
虎は結局、孤独に過ごした。人間を信じた我が愚かだった。占い師の占いなど所詮は当たらぬものだ。くだらない。
……ただ、わざわざ食われに来た律儀さに免じて、命乞いのきっかけになった本くらいは読んでやるか。そう思い、虎は本を開く。
本の中には、占い師のこれまでの旅の数々が記されていた。
雲海を突き抜けた山々の荘厳さや、湖に咲く蓮の美しさ、野を埋め尽くさんばかりの菫に、艶やかにほころぶ桜など、虎がこれまで目にしたことがなかったものがいくつも書かれていた。
憲兵や軍との逃走劇ややるせない大切な人との別れなど、虎が経験してこなかった話もたくさん載っていた。もちろん、虎とのことも書いてあった。
虎は飽きなかった。虎が求めていたものがここにあった。
ただただ夢中で読み続けた。捕食以外で夢中になることなんて初めてのことだった。
やがて結びに記されていたのは、自らの旅の終わりが生の終わりとなるであろうこと。虎に自分が食われることで、この書物は完成するであろうということだった。
虎の寿命ももう近い。最期に我がこの占い師のためにしてやれることといったら、これしかないだろう。
虎は本を咥えて蓮の葉で編んだ籠の上に乗せると、そっと、籠を湖面へ押し出した。本という光が灯籠となり、いつか誰かの孤独を照らしてくれればいい。虎にとってそうであったように。
占い師の美しい思い出が湖面へ流れるのを見届けて、虎はそっと息を引き取った。

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